杉工作とは何か? 日本軍が仕掛けた“紙幣戦争”と、キャッシュレス時代への警鐘
記録されざる兵器──登戸研究所と杉工作、そして現代の通貨戦争
第1章:未明の研究所──登戸研究所とは何か
神奈川県川崎市の多摩丘陵。1940年代、この静かな土地に、日本陸軍の極秘研究機関が存在していた。名を「登戸研究所」、正式には「陸軍第九技術研究所」と呼ばれるこの施設は、通常の兵器ではなく、諜報・謀略・心理戦といった「秘密戦」に特化した研究を担っていた。
登戸研究所では、風船爆弾、毒物、スパイ用暗号器、そして偽造文書などが研究され、戦場の裏側で使われる“見えない兵器”が数多く開発されていた。中でも特筆すべきは「第三科」の存在である。この部署は、紙幣やパスポートの偽造といった特殊任務を担っていた。
この施設の研究員たちは大学教授や印刷職人、諜報活動経験者など多様な専門家で構成されており、彼らの研究成果は、文字通り「記録されない兵器」として歴史に沈んでいくこととなった。
第2章:通貨を武器に──杉工作の全貌
登戸研究所の第三科が実行した最も知られていない作戦の一つが、いわゆる「杉工作」である。これは中華民国政府(国民政府)が発行する「法幣(Fǎbì)」を偽造し、中国経済を内部から混乱させることを目的とした経済攪乱作戦であった。
この作戦は1939年頃から始まり、表向きには存在しない極秘任務として位置付けられていた。紙幣の偽造といえば犯罪行為であるが、この場合、国家がそれを行っていたという点で異質である。日本軍は経済戦の一環として、流通貨幣を破壊するという戦略に出た。
杉工作という名称は、特定の記録には残されていないが、一部文献ではこの名称が用いられている。作戦の具体的な規模や成果についての資料は限定的であるが、確かに行われていたことを示す痕跡は、登戸研究所資料館や当時の軍関係記録に残されている。
第3章:精巧な偽札──製造工程と技術
杉工作の中核を担ったのが、法幣の完璧な偽造である。これは単なるコピーや模造ではなかった。紙質、インク、印刷技術、透かし模様、シリアルナンバーの規則性に至るまで、徹底的に分析され、再現された。
偽札の製造には、登戸研究所内に設置された高性能の印刷機が使用された。中でも「北方班」と呼ばれる専門部隊が、製紙の工程まで独自に行っていたとされる。多摩川の伏流水を用いて高品質な洋紙を製造し、偽札の紙幣らしさを極限まで高めていたのだ。
完成した偽法幣は、華北や満洲などの占領地域で流通され、現地住民の手に渡る形で中国の経済にじわじわと打撃を与えていった。これにより、物価の不安定化や取引の混乱が引き起こされたという証言も存在している。
また、同時に日本軍が発行していた「軍票」と併用されることで、貨幣制度の混乱が意図的に拡大された。つまり、杉工作とは「戦わずして勝つ」ことを目指した経済戦の実験でもあった。
第4章:通貨の信用と戦略性──現代への教訓
杉工作が示したのは、通貨というものが「信用の上に成り立つ兵器」たり得るという事実である。通貨そのものは紙でありながら、人々がそれを信じるからこそ、価値を持つ。
では、2020年代の今、私たちが使う「通貨」とは何だろうか。
クレジットカード、Suica、PayPay、LINE Pay──今や紙幣は使われず、デジタルの数字だけが人とモノを媒介している。これらのキャッシュレス決済は、利便性と引き換えに、さらに「信用」の集中化を進めている。特定の企業や国が管理するサーバーに依存し、通信が遮断されれば通貨も凍結されるリスクがある。
つまり、登戸研究所の兵器は「紙幣の偽造」だったが、現代においては「データそのものが通貨の本体」となった。攻撃の対象も、紙ではなくネットワークやサーバーとなり得る。
杉工作は失われた戦争の記録かもしれない。しかし、その本質──「通貨を通じて敵国を揺さぶる」という発想は、いまなお変わらず進化しているのである。
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